その晩、私はあるパーティーの手伝いで、貸切りの食堂のキッチンで働いていました。たった一人で、それも夜遅くに...それもこれも全部、私のクジ運の悪さが原因でした。
その日は、朝から数人で次の日のパーティーに備え下準備をしていましたが、夜も遅くなったということで、後片付けはクジを引いて外れた一人がやることに...
「ついてないな〜...」
そう呟きながら、「はずれ」を引いた運の悪い人差し指を見ました。絆創膏の張られた指...それは、昼にうっかり切ってしまった指でした。結構深く切った様で、絆創膏から血がにじんで見えています。
「は〜。」
必要以上に大きく溜息をつくと、私はいくつかの材料を持って冷凍庫へ向かいました。
冷凍庫とは言っても、大きな食堂の物ですから、家庭用とはサイズが違います。そこのは、人が普通に歩いて入れる、小さな部屋の様な冷凍庫でした。その冷凍庫の壁に棚があって、そこへ次の日の為の材料を置くのです。
私は冷凍庫の厚い扉を開くと、両手に材料を抱えて中に入りました。冷たい空気が体を包むのを感じながら、奥の棚の前へ立った時です。
「パタン。」
その小さな音を聞いた時、私の背筋は凍りつきました。青ざめた顔で振り返った時は、もちろん手遅れ。もう冷凍庫の扉は、きちんと閉まっています。私は慌てて扉へ駆け寄ると、扉を押してみました。もちろん開くはずもありません。堅くしまった厚い扉の冷たさが、そこは冷凍庫だと私に教えてくれています。
次の瞬間、私は力いっぱいドアを叩きながら、声の限り叫んでいました。
「誰か〜!開けて〜!誰か〜!」
誰もいない食堂のキッチンへ向かって...頭の中には、冷蔵庫の中で窒息死した人の話がグルグルと回っています。
「誰か〜!助けて〜!」
叫びながらも頭の中では、その日の自分の運の悪さを実感していました。
(最悪だ...今日は朝から運が悪かった...)
そう思っていると、今度は、子供の頃に母に言われた言葉が蘇りました。
「冷蔵庫でかくれんぼしちゃあダメよ。ドアが閉まったら中からは開かないんだから。声も外には聞こえないし。息出来なくなって死ぬからね。冷蔵庫で遊んじゃダメよ。」
私は悲しくて仕方ありません。
(かくれんぼしてたんじゃないのに...)
このまま死んだらきっと言うこと聞かなかったと思われる...そう思いながら一層必死に扉を叩いて叫びました。
「誰か〜!助けて〜!」
あまり強く叩きすぎて、ドアには昼に切った指から出た血が付いています。でも、そんな事を気にしている場合ではありません。生死の問題なんですから!
それからどの位経ったでしょうか。叫んでいた私はふと気付きました。
(どうせキッチンには誰もいないし...このまま叫び続けたら、酸素早く使い果たすだけじゃん。)
そう思い、私は慌ててドアから離れました。
(困った...このままじゃ、朝まで誰も来ないし...この部屋の空気でいつまでもつんだろ?どうしよう...その前に凍え死ぬのかな?冷蔵庫ならまだましだったかも...窒息死と凍死とどっちがましだろう?)
だんだん最悪の事態に頭が慣れ始めてきました。
(こんな死に方...結構恥ずかしい...新聞に何て書かれるんだろう?...新聞くらい載るよな...有名人じゃないけど...町内新聞くらいには載るだろう...やばい!どの写真が使われるんだろう?最後に撮った写真は...いや、あれは困る。あのみっともないのは...)
死を目前にしたストレスからでしょうか、くだらない事ばかりが頭に浮かんできました。そして、そのまま困っていると、ふと声が聞こえてきました。
「ねぇ、いつ帰るの?」
見ると、そこにはおねえちゃんがいるではありませんか!
「おねえちゃん!」
私は喜びのあまり、駆け寄っておねえちゃんを抱きしめました。
「どこから来たの?」
おねえちゃんを見て聞きましたが、それは、あまりにもくだらない質問でした。相手はいつもいきなりどこからともなく現れる妖精です。
「家。」
当たり前の様のおねえちゃんは答えました。そして、
「ねぇ、いつ帰るの?」
留守番に飽きたのでしょう。
「それがね、困ったことになって...」
そう言って、はっと気が付きました。
「おねえちゃん、助け呼んできて!」
「なんで?」
「あのね、あっこの扉が閉まって、出られなくなっちゃったの。だから、助けを呼んで来て。」
するとおねえちゃんは嬉しそうに両手を挙げて言いました。
「はい!」
そして、言うが早いか、おねえちゃんは私の目の前からパッと消えてしまいました。
(は〜、助かった。)
そう思った途端、私はとんでもない事に気が付きました。
(おねえちゃん、私にしか見えないじゃん。)
そうです。おねえちゃんは、私にしか見えなかったんです。
私はがっくりと肩を落として座り込みました。
(最悪だ...)
他に出口がないか部屋を見回しても、棚しかありません。どんどん寒くなっていく中、私は途方にくれていました。
(寒い...まぁ、誰も道連れにしてないだけましか。)
その日は、相手をする時間がないからと言って、通常は私にくっついているキューピーちゃんもたまちゃんも連れて来ていませんでした。まぁ、相手は妖精ですから、一緒にいたとしても、どこかに行こうと思えば、いつもの様にパッと消えて行けるから、大丈夫なんでしょうけど。
(今日は、ほんとについてないな...指は切るし、クジには外れるし、もう直ぐ死ぬんだろうし...最悪だ...)
そんな事を考えていた時、目の前におねえちゃんがまた現れました。
「みんな連れて来た!」
おねえちゃんは自慢気に立っていました。そして、その後ろには、他の7にんの妖精達。私は困ってしまいました。
(私が連れて来いって言ったのは「助け」だったのに...)
そんな私の考えなど気付かない様子でおねえちゃんは目を輝かせて私を見ています。
(まぁ、仕方ないか...)
もう諦めに入っていました。私はおねえちゃんの頭を撫でながら。
「えらかったね。ありがとう。」
褒められて、おねえちゃんは嬉しそうに頷きました。そして、他の子達はというと、それぞれ私に話しかけています。
「ねぇ、ここで何してるの?」
「帰ろう。」
「ここどこ〜?」
そう言いながら、新しい遊び場所に興味津々の様です。棚の上の物を見たり、白く出る息を見ては喜んだり...
私はというと、ちっとも改善されていない問題にどっぷりと浸かっていました。
(どうしよう...)
途方にくれていると、「かなえ」が私の肩を叩きました。
「ここで何してるんですか?」
かなえはいつも丁寧な言葉遣いです。
「出れなくて困ってるの。」
私は力なく答えました。
「どうして出れないんですか?」
「ここは、冷凍庫の中だからよ。」
「どうして冷凍庫の中だと出られないんですか?」
「冷凍庫の扉は中からじゃ開かないの。」
「どうして中からじゃ開かないんですか?」
その質問に私は困りました。
「どうしてって...ん〜...」
私は一生懸命冷凍庫の扉の構造を考えていました。
(密閉しないと冷気が逃げるからかな?...こういうのは苦手だな...)
そういうことを考えていると、かなえがまた訊きました。
「冷凍庫に入ったのは初めてなんですか?」
「へ?...いや、今日は何回も入ったよ。それにね、前にも食堂で働いてた事があるから、その時も何回も入った事あるのよ。大きな冷蔵庫に入ったこともあるよ。」
「へ〜。」
かなえは相槌程度にそう言いました。
私はそんなかなえの様子を見ながら、心の中で自分に呆れていました。
(そうなのよね。これが冷凍庫に入ったのが初めてじゃないのに、なんで今回に限ってこんな事になったんだか...まったく、何考えてたんだろう?)
情けなくなってきました。かなえは俯いている私を見ると、また不思議そうな顔で訊きました。
「いつも出られなくなるんですか?」
そんな訳はありません。
「ううん。そんなことないよ。」
私は当たり前の様に答えました。
「じゃ、どうして今日は出られないんですか?」
かなえは一層不思議そうに聞きました。
「え?」
その質問に私の動きは一瞬止まりました。
(なんでだ?今までにも何回も入ってんのに、なんで今日に限ってこんな事に?前にもこんな感じの冷蔵庫に入ったりしたし...出られなくなったことなんかないよな。なんで?)
かなえは、返事の遅い私にまた訊きました。
「どうして今日は出られないんですか?」
私もそれが不思議になりました。
「それはね...」
その後が続きません。
(今まではどうやって出たっけ?他の人が開けたり、扉の間に物を挟んだり...でも、そんな事しない時も...一人の時だってあったし...なんでだ?)
そう考えていると、なんだかそれまでは気付かなかった霧が晴れていく様な気がしました。
(なんでだ?...確か、前はドアになんかレバーが出てて...)
そう思いながら、ふと扉を見ると、私が叩いたせいで血が付いている部分より30センチ程下に細長い何かがあるではありませんか。
(あれ?)
私は立ち上がり、扉まで行きました。
(こんなの押すと扉が...)
そう思いながらその細長い物を押すと、扉が静かに開きました。
(あっ...)
私はその瞬間、自分の馬鹿さ加減にやっと気が付きました。そうです。その冷凍庫の扉は、きちんと中からも開くようになっていたのです。そして、日頃の私なら、そんな事は知っていたのです。ただ、あの時はパニックって、運が悪いと決め付け、冷凍庫の扉は開かないと思い込んでいただけで...
私は間抜けな自分に腹が立つやら情けないやら...かなえがごちゃごちゃ質問してくれなかったら、いつまでもパニックになったまま勝手にそこで凍死していたかも知れません。それこそ、不可解な死として、後世に伝えられたでしょう。
その時、やっと私は気付きました。おねえちゃんは、私が頼んだとおり、助けを連れて来てくれていたのです。それを本人は分かっていたのかどうかはどうも分かり難いところではありますが...そして、もっと分からないのは、助けになったかなえは、質問の効果を知っていて私を質問責めにしたのか...それとも、あれはただの偶然だったのか...
その日私は、三つの事を学びました。一つ目は、思い込みとパニックってのは恐ろしいもんだってこと。二つ目は、「なぜなのか」ってのをきちんと考えると、見えてなかったことが見えてくることもあるってこと。そして、三つ目は、妖精はとても奥が深いってこと。
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