耳元の音に起こされたのは、まだ太陽が山から片目を覗かし始めた頃だった。
毎日の事ながら、動物というものは迷惑なほど早起きだと実感しながら、嫌々枕から頭を離した。
「もうお腹すいたの?」
私は溜息混じりにそう言いながら、音の原因を撫でた。
好きで譲り受けた訳ではないが、長年一緒にいると、やはり情は湧くものらしい。
わがままな小悪魔たちが、今では私の唯一の友であり、可愛いペットになっている。
それから私は、またしても始まってしまった一日を溜息で迎え、ベットから出ると、洗面所に向かった。
身支度...誰に見られるでもない...見られたくもない...けれど何故かこれも日課になっている。
無駄な抵抗...抜けない習慣...色んな言葉が頭の中をゆっくり練り歩く。それを無視しながら、記憶を辿って身だしなみを整える。無残にひび割れた鏡は見ないようにして。
そうして、身支度を終えると、ペットと共に朝食を食べ、その後は、いつもの様に庭に無数にある石像の手入れに取り掛かる。
どれも悲しい思い出が付いていて、正直見るだけで辛くなるが、どうしても放っておく気にはなれない。
何度となく埋めてしまおうかと思いもしたが、なぜか未だに踏み切れていないのは、私自身への意地悪なのか、いつか何も無かったかのように元に戻るのではという小さな期待を捨て切れていないからなのか...それともただ単に面倒臭いだけなのかは、今のところまだ分かっていない。
そんな事をブツブツと一人で考えながら、石像を洗っていると、音が聞こえた。
誰かが来る...そう思った瞬間、背筋を冷たい物が走った。そして、音の方を見る余裕もなく、反射的に家の中に走った。静かに、見つからない様に。
そして、柱の陰から、やっと少し落ち着いて、音の方角を見た。
見知らぬ男。
石像の隙間から見えるその姿は、20代そこそこといった感じだ。良く鍛えられた体は、庭の石像達に良く似ている。
可哀相に...私は反射的にそう思った。それから、はっとして、何度も頭を振ると、今度は無理に前向きな考えを何度も唱えた。それが現実になる様に...
これで終わる、これで終わる、これで終わる、これで終わる...
そう呟く私の耳に男の声が聞こえてきた。
「化け物、出て来い!」
その男は怒鳴っている。
何度も聞いた言葉...罵声も回数聞けば慣れると言うのは絶対に嘘だ。何度言われても必ずグサッっとくる。まぁ、部屋で泣き崩れなくなっただけ、慣れたといえば慣れたのかもしれないけれど...
私は勇気を奮い起こして、庭の男に話しかけた。
「そこから進まないで。」
なぜか最後は日を浴びたいと思っている。日の当たる、石像の溢れたこの庭で...この醜さを見られたくない筈なのに...もしかしたら、死ねば元に戻れるという希望を、心の底で未だに持ち合わせているのかもしれない。
「希望」という言葉が頭を過ぎり、フッと鼻で笑ってしまった。
愚かな...希望など、当の昔に捨てたはず。そう思った瞬間、体の熱が引くのを感じた。
これが私だ...その実感に、一度だけ深呼吸をすると、また庭の男に話し掛けた。
「私の首が目当てなんでしょ。」
私の声に、男は怒鳴った。
「で、出て来い、ば、化け物!」
明らかに怯えている。そして、それを隠す為に無理に剣を振りかざす姿...みんな同じだ。
可哀相に...そんな言葉がまた頭に流れ、慌てて振り払った。
「首をあげるから、話を聞いて。」
言いながら、心から祈った...聞き分けの良い人ですように。
聞き分けが悪いと、性質が悪い。以前、説得に数時間掛かったことさえある。まぁ、別にする事もないのだが、それでも、しゃべり続けるのは疲れる。出来ればさっさと話をつけて終わらせたいものだ。
「首をあげるから、話を聞いて。」
私は、もう一度繰り返した。すると、以外な返事が帰って来た。
「どういう事だ?」
私は、少し安心した。思ったよりも早く事が済むかも知れない。
「私だって、こんな姿で生きていたくなんかないの。あんたに殺させてあげるから、言う通りにして。」
嘆願するように言った。しかし、男は、
「どうせ罠に嵌めて、こいつらみたいにしようと思ってるんだろ!」
庭の石像を指している。まぁ、そう思う気持ちは分かる。
「違うの。そうじゃないのよ。事情を話すから、そいつらみたいになりたくなかったら、そこでおとなしく聞いて。」
出来るだけ誠意を込めて言った。すると、
「...話せ。」
まだ迷っている様だが、まぁ、聞いてくれそうだ。私は、相手の気が変わらない様に急いで話し始めた。出来るだけ明るく...怖がらせないように。
「私もこんな姿で生きてなんかいたくないのよ。だから、殺してくれるってんなら、大歓迎なの。でね、今までも、殺しに来てくれた人達がいたから、喜んでそうしてもらおうと思ったんだけど、どうも運が悪いのかしらねぇ...何故か上手くいかなかったのよ。」
今のところはおとなしく聞いてくれている。私はそのまま続けた。
「ほら、そこのあなたの横の人。その人ね、ひどい雷の日に来たの。で、家の中に入ってもらえば良かったんだけど、個人的には、その庭で死にたくてさ。だから、外に出るから待ってって言ったの。そしたらね、その人、雷が鳴ってんのに、剣を高々と振りかざしたまま待ってたのよ。で、雷が落ちちゃってね...私も驚いて、目開けちゃったの。」
私の話が嘘ではないことは、石像を見れば分かる。実際、男は、自分の横にある石像をまじまじと見ている。
「他にも色々とあってね...近くに行ったら目を閉じるから、それまでよそを向いてるって約束だったのに、何かの音に驚いて、いきなり振り向いた人もいたし...転んでうっかり目を開けちゃった時もあったし...それはね、本当に私が悪かったんだけど...」
何度も独りで練習した台詞。本当の話だが、あまり言い訳がましくはなりたくない。努めて明るく...そう何度も自分に言い聞かせた。
「そりゃあ、なかにはいきなり飛び付いて来る人とかもいたから...そんな事されたら、私だって、反射的に見ちゃうじゃない。蛇だって、いきなり襲い掛かられると、凶暴になるのよ。」
私は続けた。
「だからね、無事に私を殺したかったら、そこでおとなしく待っていて。そしたら、私が目を閉じてあなたの所まで歩いて行くから。ね。お願い。」
どうか信じて...そう何度も心で祈る。すると男は、
「本当に死にたいのか?」
意外にも、信じてくれているようだ。小さな期待に胸を躍らせる自分を抑えながら、私は話を続けた。
「死にたいにきまってるじゃない。だって、こんな見かけよ。化け物呼ばわりされて...誰も近寄ってはくれないし。それに、ほら、もしあなたを石に変えたかったら、もうとっくにやってるわよ。本当に殺しに来てくれて、ありがたいの。だから、お願い。そこでおとなしく待ってて。近くに行ったら、下を向いて座って、目を閉じたまま首を前に出すから。そしたら、その剣で首を切って。」
言ってから男の返事を待ったが、何も聞こえない。まだ納得していないようだ。
「信じられないんなら、後ろ向きに歩いていくから、あんたは私の足元を見てれば良いわ。おかしいと思ったら、切るなり逃げるなり好きにしたら良いじゃない。」
頼むから、信じてくれと心でまた祈る。
暫くの沈黙...そして、
「ゆっくり後ろ向きに出て来い。」
私はそっと胸を撫で下ろした。第一関門はなんとか突破した様だ。
「じゃあ、出て行くからね。」
私は約束通り、後ろ向きにゆっくりと歩き始めた。転ばない様に...振り向かない様に...過去の失敗が幾つも頭を過ぎる。落ち着いて...そう言い聞かせながら歩いた。
「急な動きはしないでね。蛇が暴れだすから。噛まれないように気を付けてね。」
男に警告してから、今度は自分の頭に話しかける。
「今日は、噛んじゃダメよ。ね。お願いだから。」
今日はなんだか上手くいく気がする。そんな期待に興奮する自分を必死に落ち着かせた。本当に終わるまで、油断は出来ない。
歩いていると、
「そこで止まって蹲れ。」
男の声がした。
私は、言われた通り止まると、ゆっくりとその場で座り込んだ。振り返らず、下を向いて。そして、男の足が、私の前に来るのを確かめてから、しっかりと目を閉じた。
これで終わる...色んな事が頭を過ぎろうとするのを、必死に止めた。もう考えたくはない。考える時間は十分あった。涙が枯れるほど泣く時間も。今はただ、終わりたいだけ。
そんな事を考えながら、ふと、何も起こらないのに気が付いた。
少し気になり、
「ほら、早くしてよ。...ねぇ。」
と声を掛けた。
男からの返事がない。嫌な予感がして、薄目を開けると目の前には、まだ男の足が見えた。そして次に聞こえた音...小さな呻き声...強張る男の足...
私は溜息をついた。こうなったのも、これが初めてではない。
またダメだった...「がっかり」なんて軽過ぎる言葉では表せない落胆。そして、それにも慣れている自分に気付いて知る絶望。
そんな私の気持ちなど、男は知る由もないだろう。目の前で倒れ、体を震わせている。もう、声も出せないらしい...
こうなるともう、私には、一つしかしてやれる事はない。
私は、諦めると、苦しそうに痙攣を起こしている男の目を見つめてやった。
早く苦しみを終わらせてやりたいから...いつか元に戻ることが出来るかも知れないから...埋めるよりずっと簡単だから...理由は色々見つかる。でも、本当は、自分を苛める為に目の前に置いておきたいだけなのかも知れない。
そんな事を考えながら、石に変わっていく男の顔を撫でた。
そして、立ち上がると、頭の蛇を掴み、目の前まで持って来て、そいつらの目を睨み付けた。
「噛んじゃダメだって、言ったでしょ。」
言いながら、いつも不思議に思う。どうしてこいつらは石にならないんだろう?
折角の機会を台無しにした奴らに腹が立つが、その小さな丸い目を見つめていると、どうしても憎むことが出来ない。
「これも呪いだな。」
そう呟くと、私は、家の中へ向かった。
次は、蛇を三つ編みにしとこう...と心に書きとめながら。
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